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中欧見聞録

7. 静の人、マルグリット・ドートリッシュ

マルグリット

あああ、なんだかすっかりハマってしまいました。ウィーンからハプスブルグを連想したときは、ちょっとマクシミリアン1世に触れてみて、ちょっとマリア・テレジアに触れてみたら終わるはずだったのです。私は主にウィキペディアでそれぞれの人物のプロフィールを読んでいるのですけど、関連する人物へのリンクを辿り出すと止まりません・・・。で、マクシミリアン関連でもう一人、娘のマルグリット・ドートリッシュ(1480-1530)もご紹介したいと思います。さすがハプスブルグ家の人々はヨーロッパ中に広がっていて、この人もその生涯をフランス、スペイン、ネーデルラントなど、ヨーロッパ各地で波乱に富んだ人生を過ごしました。基本的にこのコーナーで取り上げる事柄は、今回の旅行で行くことになっている三都市の範囲内に留めるつもりだったのですが、そこからはみ出してでもまとめておきたいほど、私はこの人を好きになってしまったのです。

マクシミリアン マリー
マクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュ

マルグリットがマクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュの長女として生まれたとき、マクシミリアン1世はまだ皇帝ではありませんでした。マルグリットは、フランスの北に位置する豊かな国・ブルゴーニュで、平和な子供時代を送るはずでしたが、1482年のマリーの事故死によって彼女の運命は変わります。マリーは、マクシミリアンとの間に生まれた二人の子・フェリペとマルグリットを彼女の相続人とし、夫マクシミリアンをフェリペが成人するまでの後見人としましたが、その遺志は家臣たちに無視されました。ブルゴーニュ公国にとってみればマクシミリアンは逆玉の輿のよそ者だったわけで、反発が出るのも自然なこと。有力貴族がフランス王ルイ11世と手を組み、マクシミリアンに対する反乱が起こりました。なんと、マクシミリアンは幽閉されるまで追いつめられて敗北を認め、ブルゴーニュ公を退位し、しかもわずか2歳の娘マルグリッドはフランス王太子シャルル(1470-1498)と婚約させられ、半ば誘拐のようにフランスへ連れて行かれました。

シャルル アンヌ
シャルル8世とアンヌ・ド・ボージュー

フランスへ送られたマルグリットは、シャルル王太子の姉であるアンヌ・ド・ボージュー(1461-1522)に養育されます。シャルルが1483年に13歳で王位につきシャルル8世となると、アンヌは若年の弟王の摂政を勤めました。なるほど、厳しそうな顔をしていますねえ。シャルルの即位にともなって、マルグリットは形式的に王妃となりました。このとき10歳。・・・ただ、マルグリットとシャルルが結婚した年とか、そもそも「結婚した」とか、そういう記述を見付けられないのです。マルグリットは婚約者としてフランスに連れて行かれたし、シャルルは国王になったので、とりあえず王妃と呼ばれたというようなことでしょうか?

アンヌ
アンヌ・ド・ブルターニュ

さて、マクシミリアン1世も負けたままではいませんでした。彼はフランスへの対抗策としてアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を画策します。ブルターニュ公国は現在のフランスの一部・ブルターニュ地方を領土とした独立国でした。そこを押さえてフランスを挟み撃ちにしたかったわけですね。二人の結婚は1491年に代理人によって行われました。が、同じ年のうちに、シャルル8世はマルグリットとの婚約を破棄か無効にし、ローマ教皇に働きかけてマクシミリアンとアンヌ・ド・ブルターニュの婚姻を無効にし、シャルル8世その人がアンヌ・ド・ブルターニュと結婚してしまいます。

ビアンカ
ビアンカ・マリア・スフォルツア

ちょっと横道に逸れますが(というか、本流もないようなものですけど)、シャルル8世は後にミラノ公女ビアンカ・スフォルツァと結婚したマクシミリアン1世がイタリアに進出するのを嫌い、自分も出てきてイタリア戦争を引き起こした人なんですよね。温厚王なんてあだ名があるのも納得できるようなボンヤリした顔をしてますけど、私にはどうも狡猾な王だったように思えるんですよねえ。全然好きになれません。まま、私なんかに好かれなくてもいいんだろうけど、嫌な感じ・・・。

ともかく、シャルルとアンヌ・ド・ブルターニュの結婚で、マルグリットがフランスに留まる理由も無くなったので、マクシミリアンは彼女を帰すようにフランス宮廷と交渉しますが、なかなか接点を見いだせませんでした。シャルル8世に結婚相手を横取りされたマクシミリアンと、同じくシャルル8世に捨てられたマルグリット、父娘揃ってコケにされたわけですよね。そりゃあ怒ります。そういう格好悪い思いも味わっているところがマクシミリアンの憎めないところでしょうか。で、ついには武力行使でいくつかの所領を奪い返し、1493年の「サンリスの和約」により、マルグリットを取り戻し、ブルゴーニュ公国の領土も全部ではなかったようですが取り戻しました。このへんでハプスブルグとフランスの長きにわたる険悪な関係は決定的になります。そして同じ年に、マクシミリアンは神聖ローマ帝国の皇帝に選出されました。

フィリップ ファナ
フェリペ美公とファナ女王

1496年、マルグリットの兄フェリペ美公(後のフェリペ1世)とカスティーリャ王女ファナ(後のカスティーリャ女王)が結婚。翌年の1497年、マルグリットがカスティーリャ王太子ファンと結婚(ファンの肖像画が見つからないのが残念)。そう、マクシミリアンは孫の代でボヘミア・ハンガリーのヤギェウォ家と二重結婚を果たしたように、子の代ではカスティーリャ王家との二重結婚を果たしていたのです。女性との浮き名を絶やさなかった兄フェリペと、狂女王のあだ名が示すように精神に異常をきたしていたというファナの夫婦に対し、マルグリットとファンの夫婦仲は良かったようです。しかし、二人の結婚はわずか半年でファンの病死により幕を閉じ、妊娠していたマルグリットは、のちに死産してしまいます。夫ファン王太子の死後、マルグリットは三年ほどスペインに留まりました。ファンの母は、夫のアラゴン王フェルディナンド2世と共に「カソリック両王」と呼ばれたカスティーリャ女王イサベルでしたが、彼女の厚意もあってマルグリットはスペインに留まったということです。マルグリットは人から好かれる性格だったのでしょう。結婚生活がうまくいっていたことからも、それは想像できます。

フィリベルト
フィリベルト2世

1501年、マルグリットはサヴォイア公フィリベルト2世(1480-1504)と結婚しました。この結婚も夫婦仲は円満だったそうですが、またしても長くは続かず、三年後にフィリベルトは生水に当たって亡くなります。二人は同じ年で、しかも、二人ともフランスのアンヌ・ド・ボージューに養育されました。アンヌ・ド・ボージューの母はサヴォイア公の娘だったので、サヴォイア公国とフランス王家も血縁関係にあったのです。もしかしたら、マルグリットとフィリベルトはアンヌ・ド・ボージューを通じて子供のころから知り合いだったかもしれません。それでお互いに好意を抱いていたかも・・・・。と、甘い想像をしてしまうのは、波瀾万丈のマルグリットの人生で、何というか、政治とは関係なく、彼女が幸せを感じられる瞬間があったと思いたいからなんですけどね。

サヴォイア公国はイタリア西部とフランス東部のあたりに位置した国。フィリベルト2世の名はイタリア語で「Filiberto II detto il Bello」と表記されますが「Bello」は「美しい」とか「よい」という意味です。この人は日本語だったら「美男公」かもしくは「善良公」みたいな感じで呼ばれていたのでしょう。たしかに美男です!なんだか甘っちょろい顔だけど、フェリペ美公よりは美男じゃないですか。また顔の話をしてるけど。しかも私、フェリペ1世には別になんの恨みもないんですけどね(笑)。・・・ただ、フィリベルトはあまり政治には関心がなかったらしく、暴政を行っていた義兄をマルグリットが解任し、国を救ったということなので、「善良公」よりは「美男公」の方が正しそうですね。マルグリットは優れた政治家の父マクシミリアンから才能を受け継いでいたのか、フランス王の摂政を勤めたアンヌ・ド・ボージューに養育されたのが良かったのか、これまた優れた政治家だったスペインのカソリック両王と過ごしたのが良かったのか、その全部なのか、どちらにしても、女性ながら政治手腕を発揮したわけです。

マリア カール
マリア・フォン・エスターライヒとカール5世

1507年、27歳のマルグリットは父マクシミリアン1世によってネーデルラント総督に任命され、それからは政治の世界で活躍する一方で、早世した兄フェリペ1世の遺児を養育しました。兄嫁のファナは精神状態がよくなく、子供を育てることができなかったのです。子供たちの中には前章で触れたハンガリー王妃マリア・フォン・エスターライヒと、神聖ローマ皇帝カール5世がいました。カール5世はマルグリットの尽力もあって皇帝に選出され、そして、マルグリットのあとのネーデルラント総督は、彼女が育てた姪マリアがカール5世に任命されて勤めたのです。

ちなみに、ネーデルラントは現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグとフランスの一部を含む地域で、そこにはマルグリットの母、マリー・ド・ブルゴーニュの公国がありました。ブルゴーニュ公国は、先にも書いたように、マリーの死後、マルグリットと兄フェリペが継ぐはずだったのですが、その継承がスムーズに行われなかったため、このころは17州(伯爵領や公国)の連合体になっていました。その17州をまとめるのがネーデルラント総督です。マリーは人生の最後に、様変わりした自分の国に戻ってきたということになるでしょうか。ネーデルラントはその後も統一国家として落ち着くことが出来ず、戦争を繰り返します。

bg

幼児のころから男達の思惑に振り回され、政治の波にさらわれ続けたようなマルグリット・ドートリッシュ。これだけ波乱に満ちた人生を送った人なのに、本人をイメージすると静かで賢明な人物像が浮かびます。投げやりになることなく、自分を見失うことなく、周りが激動していても彼女だけは台風の目のように静かで、どの状況下でもベストを尽くした・・・。そんな風に思えるのです。少なくとも政略の駒として利用された弱々しい悲劇の女性像みたいなものは浮かびません。そんな宿命を覆す強さや智恵、それに多分、愛情も持っていたのではないでしょうか。尊敬してしまいますねえ。・・・マルグリットは1530年に50歳の生涯を終え、最後の夫フィリベルト2世が眠るブール・カン・ブレスの霊廟に葬られました。

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マルグリット These art works on this page are in the public domain.
*Portrait of Marguerite d'Austriche by Bernaerd van Orley.
*"Emperor Maximilian I" by Albrecht Durer.
*Portrait of Mary of Burgundy.
*"Charles VIII, roi de France".
*"Anne de France, Dame de Beaujeu, Duchesse de Bourbon, presentee par Saint Jean l'Evangeliste" by Jean Hey.
*"Anne de Bretagne, en priere avec ses saintes".
*"Philip the Fair and Joan the Mad of Castile" by the Master of the Joseph Legend (possibly Jacob van Laethem).
*Portrait of Filiberto II di Savoia by Ferrero di Lavriano, Albero Gentilizio della Casa di Savoia.
*Portrait of Maria, Archduchess of Austria.
*"Emperor Charles V with Hound" by Jakob Seisenegger.